日本の世界遺産の件数は23件です。
その中でも戦争が起こした悲劇を後世に伝え、「二度と起こらないように」
と強い思いを込めて世界遺産となったものが広島の原爆ドームになります。
悲劇の原爆ドーム….知れば知るほど悲惨で苦しい気持ちになりますが、
二度とこのような事を起こさない事が今生きている私たちの務めです。
この記事では、原爆ドームがどのようにしてでき、世界遺産となったのか、
原子爆弾の恐怖、アクセス情報について伝えていきたいと思います。
日本人なら一度は現地に訪れ体験する事をオススメします。
あの日の出来事
1945年8月6日8時15分アメリカの爆撃機B-29のエノラ・ゲイが投下した原子爆弾「リトル・ボーイ」
広島県広島市中区大手町1丁目10にある広島産業奨励館の南東160m、高度約580mで炸裂し、
広島市は一瞬にして破壊されました。
当時の推定死亡者は14万人。
一瞬の出来事でした。
世界遺産”広島平和記念碑(原爆ドーム)”になった歴史
原爆「リトル・ボーイ」が投下され2年後、第一回平和祭開かれました。
当時の市長が「原子力を持って争う世界戦争は人類の破滅と文明の終末を意味する。」
と言いました。
廃墟となっていた産業奨励館はそれを期に「原爆ドーム」と名付けられました。
あの日の惨劇を後世に残し、戦争の恐ろしさを伝えていく為に、
1966年広島市議会で永久保存する事が決定。
世界遺産に登録された1996年、第20回世界遺産委員会は荒れました。
戦争の痕跡を世界遺産にするというのはとてもシビアな問題であったからです。
爆撃を投下したアメリカは原爆ドームの世界遺産登録を猛反対、中国は審議を棄権しました。
しかし、日本の強い気持ちと世界平和の願いが打ち勝ち、核兵器廃絶と世界恒久平和の願いをもとに
広島平和記念碑(原爆ドーム)が世界遺産登録されることとなりました。
世界遺産では異例の原爆が落とされた当時のまま保存する事が命じられ、
そのままの状態で負の遺産として維持されています。
原子爆弾の恐怖
原子爆弾の恐ろしさは他に類を見ない程です。
当時投下された「リトル・ボーイ」は爆発後0.2秒で地表温度3,000℃にいたり(鉄が溶けるのが1,500℃)、
0.8秒後には440メートルの衝撃波が発生し、その爆風は35トンとも言われています。
その爆撃に加え、原子爆弾は放射線という有害物質を生み出し、
人体に影響を与えました。
細胞に遺伝子異常を引き起こす為、
被爆した人が子供を産んだ場合も被害が出る可能性があります。
実際に爆心地1km以内で無傷であっても大勢の人が原子爆弾の放射線の影響で亡くなっています。
放射線が雲に混ざり、それで降った雨でも被爆しました。
その有害物質は、白血病、甲状腺癌、乳癌、大腸癌などを引き起こし、
今なお原爆の影響で病気の治療を続ける人がいます。
当時14万人だった死者も放射線の影響で今日に至るまで、
約32万人もの命を奪っています。
原爆ドームの保存運動が加速したのもこの影響です。
1歳で被爆し、白血病にかかり16歳の若さでこの世を去った楮山ヒロ子さんが日記に綴った
「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも恐るべき原爆を世に訴えてくれるだろう」
という言葉が、人々の心に突き刺さりました。
この悲惨な出来事を風化させてはいけない、という思いを強く感じ取れます。
戦争は何も価値を生みません。
※閲覧注意 広島原爆投下ムービー↓↓↓
また、原子爆弾は広島だけならず、長崎にも投下されています。
長崎の原子爆弾は「ファットマン」
広島に投下された「リトルボーイ」の3日後に長崎市に向け
投下されています。
現在長崎に現存する浦上天主堂が広島の原爆ドームにあたるものになります。
詳しく知りたい方は中古本でご覧ください↓↓↓
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アクセス
世界遺産広島平和記念碑(原爆ドーム)にいくにはコチラ↓↓
・広島駅から
路面電車に乗り換え → 宮島口or江波 行き乗車 → 原爆ドーム前下車
・広島空港から
広島バスセンター行 乗車(55分) → 下車後徒歩約8分
まとめ
このような悲惨な出来事は二度と起こしてはいけません。
世界のどこかで今も戦争が起きていて、それは一個人ではどうしようもできない事です。
自分たちにできる事は何かを考え、一日一日を無駄にせずに生きてください。
・あの日の出来事
・世界遺産原爆ドームとなった歴史
・原子爆弾の恐怖
・アクセス
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