第二次世界大戦中の1940年にこの
アウシュヴィッツ強制収容所は建てられました。
2年後には隣のビルケナウという場所に
2つ目の収容所も完成。
1945年第二次世界大戦終戦を迎える5年間この遺産は
ポーランドの地でたたずんでいました。
この遺産は、世界文化遺産の中でも珍しい
「負の遺産」として登録されています。
この負の遺産となる
アウシュヴィッツ強制収容所がなぜできたのか、
そしてなぜ世界遺産に登録されたかを
記事にしていきたいと思います。
・ヒトラーの策略とナショナリズム
・日独伊三国同盟
・ミュンヘン会談
・アウシュヴィッツ建設
歴史をもとに、辿っていきたいと思います。
「負の遺産」アウシュヴィッツ強制収容所とは
ナチスドイツがユダヤ人を絶滅させるために
ポーランドに建てた収容所が
アウシュヴィッツ強制収容所です。
約600万人のユダヤ人が虐殺されたうちの
約110万人がこの強制収容所で殺されました。
この大量殺戮のことをホロコーストと言います。
他にもポーランド人やソ連人、同性愛者や障害者が
人体実験に利用され、多くの命が奪われました。
双子の人体を使った結合実験や、
麻酔を使わない骨や神経・筋肉の移植実験など、
聞くだけで大変悲惨な気持ちになるような実験を
人体に施していました。
ホロコーストがなぜ起きたのか、
ドイツの歴史を辿っていきましょう。
当時の政権を握っていたのは独裁者ヒトラー
彼の政権をナチ党と言いました。
そのナチ党を支持する国民を
ナチスと呼んでいた事から、
ナチスドイツと名付けられました。
ヒトラーの策略とナショナリズム
この負の遺産のきっかけとなったのは
皆さんご存知独裁政権で有名なあの
アドルフ・ヒトラーです。
人間の迫害や人体実験など….
なぜこんなに酷いことをしているのに、
ヒトラーという人間が国民に支持されたのか。
そこにはヒトラーの策略がありました。
ヒトラーが国民の支持を得た理由
第一次世界大戦後の世界恐慌で
世界的に不況が訪れていました。
そんな中ヒトラーが首相となりました。




それで失業者は減り、
安定した生活ができる家庭が増えました。
また軍事強化のために、
武器を多く作ることをしました。
もちろん輸出も含め武器補充を行ったため、
失業者は減りました。。。


そう思った国民は
ヒトラーの術中にはまっていきました。
国民の心をガッチリ掴みたいヒトラーは
対〇〇を一心に巧みな話術で国民に植え付けました。
それが対ユダヤ人でした。
ユダヤはドイツ人を侵略する悪人として
悪役に仕立て、国民の意識をユダヤへの
対抗心としたのです。
彼の演説は心躍らされるほど巧みだったと言います。
反ヒトラーだった喜劇王のチャップリンが演じたヒトラーの演説↓↓
日独伊三国同盟
ヒトラーはソ連・イギリス・フランスに
挟まれている構図を気にしていました。
挟まれたら勝機がないからです。
ので、
ソ連を挟むようにイタリアと日本と
三国同盟を結びました。
この同盟を結んだことが、
第二次世界大戦の引き金になりました。
初めは日本と日独防共協定を結びます。
”防共”とは共産主義国を防ぐ….
つまりソ連を防ぐ協定なのです。
そんな中ドイツと友好関係にあったイタリアが、


ということで日独伊三国防共協定が
締結されました。


フランス、イギリスは他の国が潰し合いをする事を
期待して不干渉政策に打ちでます。
この逃げ腰がヒトラー暴走の原因となります….
ミュンヘン会談
ヒトラーの暴挙は各国へと振るいます。
ヒトラー率いるドイツの軍勢を恐れた
イギリスとフランスは、なるべくドイツとの
対立は避けようとしました。
でもやはりそれが裏目に出てしまいます。








「ソ連討伐の約束してるしここは穏便に済ませね?」


それで起きたのが
ドイツ・イタリア・フランス・イギリス
の首脳のみで行われたミュンヘン会談です。
なんというかもうドイツの事が
すごい怖かったんでしょうね。
当事国のチェコスロバキアと
奥のソ連には秘密で開き、
ドイツにその一部の地区を渡すことになります。
理不尽極まりない会談で
もうヒトラーの暴走は止まりません。
すぐにチェコスロバキアを侵略し、解体させました。
そしてポーランドへ押し寄せます。






(いっその事ソ連と手を結ぶか)


そうして独裁者ヒトラー策士は
ソ連と独ソ不可侵条約を結びます。


それでソ連と対立関係を解除した
ドイツはポーランドへ攻め込み、
第二次世界大戦の幕開けとなりました。
アウシュヴィッツ建設
ポーランドに攻め入ったドイツ軍は、
ポーランド南部の
オフィエンチム市というところに
アウシュヴィッツ強制収容所を建設しました。
戦争で侵略した国の人間たちを
奴隷のように労働者として働かせ、
ナチスドイツのナショナリズムの為、
つまりユダヤ人を根絶する為に作られました。
人類最大の汚点と言っても過言ではない
この強制収容所は
1940年から1945年まで稼働しました。
世界遺産 アウシュヴィッツ・ビルケナウナチスドイツの強制絶滅収容所
1979年に2度と繰り返してはならない人類の
「負の遺産」として世界文化遺産に登録されました。
現在は博物館として一般公開されています。
詳細はコチラ↓↓
負の遺産・ポーランドの強制収容所「アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館」
世界遺産登録基準はコチラ↓↓
(iv)
歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、
あるいは景観を代表する顕著な見本である。
ポーランドの小さな街オシフィエンチムに
2つの忌々しい強制収容所が建設されました。
・ビルケナウ(第二収容所)
この2つの負の遺産が世界遺産に登録されています。
明確にはされていませんが、
負の遺産の定義は、
”人類が犯した過ちの跡をとどめる物件”
のことを指します。
原爆ドームやこのアウシュヴィッツ強制収容所
などがその代表的な例で挙げられます。
人類の犯した罪で幾度となく語り継がれる
この過ちは、今後再び起きることのないよう
遺産として示しているのです。
参考ホームページ ユネスコ↓↓
アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチスドイツの強制絶滅収容所(1940-1945)
まとめ
世界遺産の
アウシュヴィッツ・ビルケナウ
ナチスドイツの強制絶滅収容所
について歴史に基づき説明させて頂きました。
どういう歴史でこの「負の遺産」が
生まれたか、どんな変遷を辿ったか。
背景を知っているだけで、
見え方がとても違うと思います。
ポイントを抑えて観光をする日まで
予習しておきましょう。
アウシュヴィッツの地獄に生きて↓↓
ユダヤ人看護師のジュディスが強制収容所に収容され
地獄を味わい解放されるまでの事実談を著した作品です。
・ヒトラーの策略とナショナリズム
・ヒトラーが国民の支持を得た理由
①失業者を援助したアウトバーン建設
②ナショナリズム政権(ユダヤ人虐め)
・日独伊三国同盟
・ミュンヘン会談
・アウシュヴィッツ建設
・世界遺産 アウシュヴィッツ・ビルケナウナチスドイツの強制絶滅収容所
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